月刊人事労務

二宮尊徳(二宮金次郎)に学ぶ人材育成

1.二宮尊徳(二宮金次郎)とは?

 皆さんは「二宮尊徳(二宮金次郎)」をご存知でしょうか。「二宮金次郎」(以下「金次郎」といいます。)というと、薪を背負いながら本を読むあの小学校の銅像から「貧しいながらも働きながら勉学に励んだ立派な人」というのが多くの方が金次郎に持つイメージかと思います。一方で金次郎が生涯どのような仕事をなしとげたのか、ということは意外にも知られていないのではないでしょうか。

 金次郎が成した事業は、600か村以上にも及ぶ荒廃した村を農業指導者として復興を成し遂げたことです。今流でいうと、赤字会社を次々と立て直すプロ経営者、というところでしょうか。

 金次郎が生きた時代は、江戸時代の幕末期です。裕福な農民の家に生まれたのですが、自然災害による飢饉がたびたび発生し、その影響もあって家は没落します。一家の生活は困窮し、両親は16歳のときに死んでしまい、金次郎は伯父に預けられます。伯父の家の仕事をきっちりとこなしたあと、勉学をし、また打ち捨てられた小さな田畑を耕し、そこから得た収入を基に独立して父祖の家を再興し、ほどなくして村でも有数の農家になりました。

 金次郎の住む村は小田原にありました。金次郎がすぐれた才覚を持って荒廃した農地をよみがえらせ、みごとに復興させたことは、小田原藩主の知るところとなり、領内の荒れ果てた村の復興の指導を金次郎に依頼します。それが後に600か村以上もの復興に金次郎が携わるきっかけとなりました。

 金次郎が荒れ果てた村を復興するときに直面した課題は、自信を失った、もう何をしてもダメだという絶望に満ちた村人たちを、自らの手で村を復興させる意欲を持たせることでした。そこで「金次郎流」ともいうべき人材育成術により、村人たちを勇気づけ、村人自ら復興に主体的に取り組ませることにより次々と村を立て直していきました。

2.金次郎の「人を信じる力」

 金次郎は最初に手掛けた再建で大きな挫折を味わいます。金次郎が立てた再建策に村人がことごとく反対し、まったく進まないのです。当初、金次郎は殿様に委任された自分こそが復興の主役と考え、村人たちは自分たちでは立ち上がれない弱い存在であると位置づけていました。あるとき金次郎はそれが間違いであると気づきます。村人たちは決して立ち上がれない弱い存在ではなく、一人一人の村人たちの中に「生み出す力」がある、自分の役割は村人たちの中にある「生み出す力」を引き出すことであることに気が付いたのです。

 この転換から金次郎は復興のシステムを変えていきます。例えば意思決定の方法を変えました。いままでは村おこしのさまざまな決定を金次郎が行って村人たちはそれに従えばよい、としていました。それを村の状況を村人たちに開示し、話し合って検討した上で投票によって考えていく制度を取り入れました。

 主役は自分ではなく村人。村人一人一人が主役となり、主体性を発揮するシステムにあらためたのです。金次郎一人が先頭に立って引っ張るのではなく、金次郎は一番後ろに回って一人一人を押し出すことに専念し、村人たちのやる気に火をつける。やがて600か村以上もの復興をなしとげることができたのは金次郎一人の力ではありませんでした。村人たちをはじめとする復興に携わった一人一人の力の結集の結果だったのです。

 金次郎の「一人一人の持つ力を信じる」人間観をあらわすエピソードをひとつご紹介しましょう。

 ある人が、「水が高いところから低いところに流れるように、人間も放っておけば悪しきに流れるものだ」と言ったことに金次郎は反論し、「いや、生きた人間の中の水は下から上に向かって流れている。なんなら今あなたの頭をたたき割ってみましょうか?きっと血が上に噴き出すでしょう」と言って大笑いしたとのことです。

 冗談みたいな話ですが、私はこのお話から金次郎の「人を信じる力」を強く感じました。金次郎は「人は本来悪性があり、矯正が必要である」という前提に立ちませんでした。金次郎は「人は低いところから高いところに向かって成長しようとしている存在である」と考えていました。金次郎の人間の善性を信じる力が、「自分たちにも生み出す力があるんだ、復興を成し遂げる力があるんだ」という勇気と希望を村人たちに与えたのです。

3.金次郎の「表彰制度」

 金次郎は若き日に、小田原藩主大久保忠真候の目にとまり、表彰を受けた経験や、そのときに感じた限りない誇りや喜びを「人生の宝」とよく語っています。そんなこともあり、金次郎が村おこしを行う際にはほぼ一貫して「表彰制度」がとりいれられています。

 金次郎が部下の評価にあたって重視したことは、その人がどれだけ多くの仕事をしたかどうかではありません。その仕事ぶりがどれだけ誠実かどうかということを最も重視しました。

 あるとき、「人の三倍仕事をする。しかもなかなかの好人物だ」という男を表彰するように同僚から促されました。金次郎はその男を呼び寄せ「私が一日中見ているから、他の役人の前でやったという三人分の仕事をするように」といいつけました。すると男はすぐさま「私に三人分の仕事をする能力はありません。役人が見ているときだけ三人分の仕事をしているように見せかけただけです」と白状しました。好人物に見えていたのも、上役におべっかを使っていただけだったのです。

 金次郎がそのとき最も評価したのは、さえない老人の労働者でした。この老人は荒地から切り株を掘って取り除く作業をおこなっていました。目立たない上になかなか骨の折れる作業ですのでだれもやりたがらないのですが、皆の嫌がることをやるくらいしか自分の役に立つところはないと老人は考え、他の労働者が休んでいるときも働いていました。

 ある日、金次郎は老人を呼び報奨金として15両を支給しました。1両は今のお金に換算すると20万円程度と言われますので、約300万円です。老人は恐れ入って私のような1人前の仕事もできない老人がこのようなお金は受け取れない、何かの間違いではないか、と辞退しようとします。しかし、金次郎は誰も見ていないところで皆の役に立ちたい一心で誰もが嫌がる仕事を誠実に行っていたことをたたえ、老後のたしにこの金を受け取って欲しい、と言いました。隠れた善行を見逃さず称賛した金次郎の姿勢に村人たちは感激し、皆さらに規律正しく作業に精励するようになったのでした。

4.「知る・よく見る」ことから始める

 表彰の話にも通じるのですが、金次郎がとても大切にしたのが、「知る」「よく見る」ということです。「今年はこんな時期に花が咲いた」「例年より芋の根が短い」など、日常のちょっとした小さな変化を見逃さず、積み重ねることにより大きな意思決定(例えば村の収入に直接かかわる育てる作物の選定など)を行ったのです。

 この「知る」「よく見る」という金次郎の姿勢は、人材育成の場面でも大いに発揮されます。村の改革に反対する者がいても頭ごなしにおさえつける、ということはしません。金次郎は反対者を説得する前に、反対者たちをよく見て、知ることからはじめました。よくよく知れば、反対も村を思えばこそだったりするのです。よく見てよく知った上で、反対者に迎合するのではなく、過去を乗り越えよりよい将来に向かっていく道を呼びかけました。

 幕末動乱の時代に1発の銃弾も撃たず、1滴の血も流さず600以上もの村を再建した金次郎の仕事術に、今の私たちが学ぶことはとても多いのではないでしょうか。

【参考文献】

・二宮金次郎の幸福論(中桐万里子)
・二宮金次郎に学ぶ生き方(中桐万里子)
・代表的日本人(内村鑑三著、鈴木範久訳)

(当社ニュースレター「月刊人事労務」2022年8月号 Volume 207 より)

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